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4台目はGPZ250R!
 
自分にとって初めての中型だ。
そして初めての多気筒に初めての2本マフラー。初めての水冷で、初めてのリアディスク。
43馬力を13,000回転でたたき出す。
250エリミと同じエンジンだ。
2気筒としては超高回転型だね。
でも低速トルクもちゃんとあって、だから何年か前にNinja250が出たとき試乗したけど、
このエンジンをディチューンしたと思ってたから、下のスカスカぶりにビックリした。

デザインは好みが分かれるところで、自分も最初は好きじゃなかった。
もちろん、一度一緒に野宿すると愛着が湧いたけど。
でもカワサキとしては自信を持ってたらしく、
カウルとシートの色の組み合わせがたくさん用意されてた。
当時は画期的発想じゃなかったかな。
まあ、肩パッドや大き目の服が流行ってたような時代ですから・・

でも速かったねー。
回しただけパワーが出たし、 前後16インチのヒラリ感で、峠でレパードとかカモッってた。
(でも一回レジェンドにはアオられたけど。あ、そういえばソアラにも・・・)
同じころ出て、スタイルも似ていたフェザー250といろいろ比べられたけど、
そして自分もやはりフェザーが欲しかったけど、多分性能じゃ負けてなかったんじゃなかろうか? いや、それくらい速かったし、乗りやすかったよ。
あんまり速かったんで、知らぬ間に白バイをぶち抜いてて、簡易裁判3万円ってことも
ありました。


これは寮の先輩に3万円で売ってもらった。
乗ってたのはまさにこの色。これに純正のアンダーカウルがついててカッコ良かった。
ライセンス照明が別体で、ビルトインが流行りの当時は違和感があったけど、
今、多いよね。これがハシリか?

ライトは明るかった。夜間走行が楽しいくらい。
あと、メーター照明がグリーンなのも他になかった気がする。
林道とか走ってたけど、一回もコケなかった。
代わりにFRPのアンダーカウルがガリガリになったけど。
これで四国は当然走りまくり、佐多岬から九州一周に出かけ、信州にも行った。

そういえば信州ツーリングの時は、夕方に電話ボックスで宿を探してるバイク乗りと会って、
二人で塩尻駅前のビジホに泊まったことがあった。もう20年以上前だ。
そいつはスケバン刑事のGPZ400Rに乗ってて、昔GPZ250Rに乗ってたって言ってた。

ちなみに高校生や大学生の頃は金がなくて、よく無人駅に泊まってたんだけど、
125KATANAで信州ツーリングした時には塩尻駅に泊まった。
寝るときは駅員さんがいた気がするけど、何も言われなかった。
貧乏学生に世間は優しい。
何も考えず、いつものように待合室で爆睡したが、朝起きると電車を待つ客が
全員こっちを向いて椅子に座ってて、寝起きの俺を眺めてた。
どうやらテレビの下でシュラフにくるまってたらしく、
片付けて出ていくまでの恥ずかしさは未だに覚えている。

話がさらに脱線するが、高山駅に泊まった時はバイク野郎に加えて、自転車野郎もいて、
ちょっとしたユースみたいになってた。
怪しい画家の爺さんも居て、円空仏に魅せられて、それをずっと描いてるって言ってた。
なぜか自分の画集ではなく、円空仏の写真集と弟子の書いた鉛筆画の絵ハガキを見せられた。
たしか絵葉書はもらったはずだが、どっかにいって手元にない。
彼の名前も憶えている。馬場左保だったと思う。
と、ここで検索してみるが、やっぱり出ないな。複数の意味で残念だ。


タイヤは16インチの選択肢の少なさから定番のアローマックス。
エンジンオイルはカワサキ純正。
ほとんどメンテしなかったけど、バイトにツーリングにと、元気に走ってくれた。
燃費はたしか30km/㍑弱。回してもあんまり変わらなかった気がする。
ブレーキディスクは不等ピッチ。あの頃のカワサキだけにすぐ錆びたけど、よく効いた。
ただ、タンクもカウルと一体だったので、マグネット式のタンクバッグは使えなかった。
自分は高校時代からのゴムベルトのやつだったから問題なかったけど。
現在、タンク内蔵のバイクは割とあるが、これも250ニンジャがハシリだろうか?
そのカウル。ライトとミラーの分だけハンドリングは軽かったんだろうが、
小さ過ぎて全く風よけにはならなかった。


時間だけは無限にあったから、チカラいっぱい走った。
高知城の横の図書館や帯屋町、バイト先のスタンドや行きつけのお好み焼き屋、
チューター先や桂浜、足摺岬や室戸岬。
いろんなとこに行った。
ちなみにチューターは寮生用語で家庭教師のことだ。
今の寮生もカテキョーではなく、チューターって言うんだろうか。


GPZくんは自分にいろんな初めてを経験させてくれた。
前述の初2気筒とかってのもそうだが、
バイクで高速道路を走ったのも、クーラントを交換したのも、チューブレスも、
ハーフカウルも、16インチも、セパハンも、別体リアシートも、
彼女の部屋というものに行ったのも、全部こいつが最初だった。
(ところで彼女といるよりバイクに乗ってる時間の方が長かった当時は、
 GPZくんは謂れのない敵対心をその娘から受けていたが。)

気に入ってたが、チューター先の子が大学に受かって、ご両親からお礼を貰ったので、
それを頭金にして欲しかったRZ250Rを買うことにして、
このバイクはお祝いにその子にあげた。
(お礼なんてもらうほど大したことしてないのに申し訳ない。)


携帯やパソコンがなかったいい時代に、いい時間を過ごさせてもらった。
あんな時代はもうこないだろうけど、いい時間を過ごすかどうかは自分次第なので、
いけるとこまで、バイクといい時間を過ごそうと思う。

ってなことを、書いてて思った。


GPZさん。ありがとうございました。
今も元気に走ってたらいいんだけど。

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今のバイクは高い。 売れないから仕方ないが、高い。

自分がニキビを潰したり、八百屋でバイトしたり、
テストでわからない問題には落書きして提出してた頃(つまり高校生の頃)は、
CBX400Fの48馬力48万円に代表されるように、1馬力1万円が相場だった。

 
ちなみに落書きと言っても絵なんかじゃなく、ちょっとひねりの効いた(?)文章なんかを
書いてたんだが、いい出来のものは先生がほかのクラスに紹介したりして、
だから調子に乗ってもっと書いたりして、じゃあ、どんだけわからん問題があったんや、
っちゅう話になるんやけど、そのうち他のクラスから対句みたいなもんまで出たりして、
テストもちょっと楽しかった。

というか、だいたい問題自体が、さすが大阪というべきか、ふざけてた。

・・・この遺跡はなにか。次の中から選べ。
 ①平城京
 ②長岡京
 ③花紀京

みんな、ああ、そう来たか、って、たんたんと答えてたけど。
今って、やっぱりこんなん許されへんのやろか?
でも自分らの代って、うちの高校でそれまでで最高の進学率やったから、
やっぱり遊びは必要やね。



ちがう。言いたいことはこんなことじゃない。
バイクの値段のことだ。

確かにバイクは馬力じゃないけど、あるに越したことはないでしょう?
なのに今は20馬力くらいで50万円するん?
1馬力2万円?
考えれん。
たしかに中低速トルクやレスポンスなんかは格段に上がってるし、
剛性があってサスもいいから、乗りやすいんやろうけどねえ・・
高いだけじゃなく、デザインも好きじゃない。
昭和に生まれてよかったよ。



ということで、前説が長くなりましたが、
長らくお待たせいたしました。
過去の愛車、第3弾です。

スズキ GS125E KATANA!
  
  
乗ってたのは赤色。キャンディ・ジプシー・レッド だったかな?
キャンディカラーは当時流行った色で、透明感のある、まさに飴のような色。
ワインレッドっぽい、味わい深いやつだった。
そして、唯一、新車で手に入れたバイクだ。

  
さてこのバイク。
言うまでもなく刀兄弟の末弟だが、タンクの形状以外に刀らしさを感じることは難しい。
しかし、単気筒13ps、最大トルク1.0kg/mの街乗りバイクに刀を名乗らせた、
当時のスズキの首脳陣に気概を感じる。

スタイルは今見てもシンプルにまとまっていて、完成度が高い。
18インチと12リットルのタンクのおかげで、125でも見劣りしない。
兄のGSX250E KATANAや、未だ愛するGN50Eと共通する星形キャストホイールも
よく似合っている。
関係ないが、最近の小僧がGSX250Eや400Eをゴキとかザリとか呼ぶのにムカつきませんか?
あの頃、そんな風に呼んだ記憶、ないし。
たぶんオンタイム以降の2次的ブームで付けられたあだ名やと思うけど。
ちゃんと、ジスペケニーハンイーカタナって呼ぼう!
ケンタじゃなくて、ケンタッキーフライドチキンって呼ぼう!

吹け上がりは軽やかで、低速トルクも数値以上に感じられ、
タイトコーナーが連続するような峠では結構速かった。
ただ、最高速度はメーター読みで110km/hくらいだったけど。
でもその分、燃費は素晴らしく、最高は53km/㍑だ。 カブ並み。
12リットルのタンクなので、いつも500kmは無給油で走れた。

タイヤはチューブタイプで、細いから自分で替えてた。
バイク屋から持って帰るときは、いつもタイヤを新聞紙でくるんで、
その中に自分を通して走った。 今そんな奴おらんな。当時もおらんかったけど。

このバイクのスペシャルな点は、他にもあって、その一つがANDFだ。
これは「アンチ ノーズダイブ フォーク」の略だったと思うが、
つまりはブレーキングでも姿勢変化をある程度抑えるって機構だ。
1100刀や250刀にも採用されていて、たしかインパルスにも付いてた気がするけど、
そんな上級システムが採用されてるのもかなりの加点だった。
あと、これはまあ、便利ではあったけど、ない方が良かった気がする、
ポジションインジケ-ター。
要するに今、何速かってのがわかるやつやね。教習車みたいだ。
もともと5速しかないから、なくても困らんかったと思うけどね。

もちろんマイナスな点もある。
シートがよくない。
写真を見ればわかるが、えらく前に傾いてる。
このおかげで常に前に座らされてしまう。
後ろに座ってても、いつの間にか前にいる。
今思えばアン抜きすればよかったんだろうが、若かったので特に気にしなかった。

何回もコケた。
成人式に行かず、ツレと走っててトンネル出口の急カーブに気付かず、
対向車線まで転がったこともある。
あの時は対向車がなくてよかった。生きててよかった。
ある意味、どこかの部族の成人式に通ずるものがある。
バンジーみたいな。
そうか、あれで大人になったのか。

トンネル出口でコケたことは他にもある。
トンネルを抜けると雪が積もってた。 
入るときはそんな気配すらなかったのに、出たら雪だ。どうしようもない。
きれいにスカッとコケた。リア右のウィンカーが折れた。
そこでは何台かのバイクが同じようにコケてて、皆が笑いながらバイクを起こしてくれた。
高知と愛媛の県境の、照明が一切ない真っ暗な寒風山トンネルだ。
真ん中あたりが一番高くなるように縦断勾配がついてるから、入ってしばらくは
出口が見えない。中央を超える頃にやっとポツンと小さな明かりが見え始める。
いつだったか、みんなで肝試しに歩いて走破したことがあるが、
あの闇の感触は今でもすぐそばにあるように思い出すことができる。
今は隣にいいトンネルが出来てるから、もうコケるバイクもないだろう。

このバイクでいろんなところへ行った。
四国はもとより、大阪への帰省や信州、中国地方、果ては本土最南端の佐多岬なんかだ。
高速は走れなかったが、125なのでフェリーや有料道路は原付料金で安く、
それらを利用してなるべく遠くに行った。
若かったので炎天下もなんのその、真夏の渋滞路もへっちゃらだった。
リアシートにテントとシュラフなんかをくくり付けて、
夏が来るたびに1週間くらいの旅に出ていた。

メンテなんて、プラグとオイルの交換とエアクリの洗浄くらいしかしなかったけど、
いつも元気に走ってくれた。
45,000キロくらいでGPZ250Rに乗り換えるまで、チェーンもスプロケも換えなかったし、
何度コケてもハンドルやステップは曲がらなかった。
ミラーとメーターバイザーは割れたけど。

今でも、カラーは違うけど、125刀が走ってるのを見ると
大事に乗ってやってほしいと思って眺めてしまう。
いいバイクだったなあ。

そういえば、初めて女の子を後ろに乗せたのはこのバイクだった。
今日は雨だった。

ということで、回顧しましょう。



スズキ GN50E!!!

GN250E、GN125Eの末弟だ。
ヤマハのRX50に対抗したのか、こっちが先か知らないが、昭和が匂う50のアメリカン。
ゴールドのキャストホイールと、
簡単に曲がり簡単に直せる針金のようなインナーチューブが目を引く名車だ。
加えてゼロハンとは思えない車格が自慢で、
一度通行区分帯違反で捕まった時、ポリが
「これ、50か?」と訊いてきたことがある。
高三の冬~大学1年の夏までの愛車だった。

ある日ツレがこれに乗っていきなり家に来て、
「ちょっと置かしとってくれん?」
って置いてって、結局取りに来ず、そのまま自分のものになった。

全体的にボロくて、シートも裂け、ナンバーもサビサビだったので、
一度、山中を走ってたら、検問張ってるポリに盗難車と疑われて、
無線でナンバーの照会をされたことがある。
もちろん、ホコリは出なかったが、
ふだん被っていたメットをたまたま被っていなかったら、
「ヘルメットはかぶりや。」と優しく注意された。
そういう時代だった。

(それから少ししてメットが50にも義務化された。と思う。
 「事故だけは ミニでは済まぬ、ミニバイク」
 という標語が義務化前にあったが、これは、
 50もメットを被りなさいよ、という意味だ。
 ところで皆さんは義務化される前の日は、やっぱり走りましたか?
 自分は晩にノーヘルで走りまくってやりました。隣のクラスの女の子の家の前とか。)



アメリカンだけど、加速すると白煙出まくりの2スト。
・・・のくせにメガホンマフラーのおかげか、排気音は結構太かった。
規制前だったからリミッターなし。
メーターは、たしか黒地に黄色い立体的な文字盤で90kmまでだった。
もちろんタコ付き。
馬力やトルクなんか全然知らずに乗ってた。
一回コケて、クラッチレバーが根元から折れたけど、
腕と度胸と貧乏で1年くらいそのまま乗ってた。
 
浪人中は、これでよく図書館に勉強しに行ったもんだ。
あと、隣の街にしかなかった蔦屋(昔のTSUTAYA)にレコードを借りに行ったり、
京都に模試を受けに行ったり、
そうそう、琵琶湖一周日帰りツーリングや、YSR50と2泊3日紀伊半島一周なんかもした。

ちなみに紀伊半島はその前にソロでも一周しており、その時に2ストオイルを買うために
立ち寄った部品屋の親父が自分と同い年くらいの子供に、
「お前もツーリングくらいせにゃあ」と言っていたのを思い出す。

このバイクもゼロハンのくせにタンデムバーっぽいのが付いてたりして、
ほんま、この当時のバイクはメーカーが2ケツ仕様にしてくれてたよなあ。
リアには結構な容量の小物入れが付いていて、工具と軍手を入れていた。
走ってて小腹がすいたらスーパーに寄って買ったパンを入れたりして。
そういえば、今思い出したけど、ウィンカーの中に予備球が入ってたような・・・
あの頃のって、そんなんじゃなかったかな?

ところで当時、鍵付きのタンクキャップは50だと、ガンマやRZ、
ARやMBXなど、18万9千円シリーズ(ARは空冷なので、ちょっと安かったけど)
には付いてたが、GN50Eはその頃でもすでに旧車で、
タンクにキーなんて標準装備されてなかった。
・・・が、こいつにはついてたんよなー。もちろん後付だから、別キーだけど、
でもありがたかった。
だって、高校の先輩たちは駅裏に停めてあるパッ2とかからガソリン抜いてたりしたから。

大学に受かって、これで大阪から高知まで一晩かけて行った。
瀬戸内海は、今はなき「宇高国道フェリー」で渡った。
夜中でも28分ごとに出ていて、瀬戸大橋が出来た直後だったからまだ盛況だった。
フェリーに初めてバイクを乗せ、サロンで道路地図を見ていると、
香川大のバイク乗りのにいちゃんに声をかけられ、意気投合し、
その後、なぜか高松のその人の部屋でラーメンを食べさせてもらった。
バイクがなんだったか全然覚えてないし、その人の顔も覚えてないけど、
部屋が狭くて散らかってて、コタツが小さかったことは覚えてる。
大学生ってこんなんなんやなーと思った。

四国山地はほぼ真っ暗だったが、たまにポツンとある街灯の下で休憩したりしながら、
快適に走り、高知には明け方に着いた。
着いたはいいが、ガス欠になって、当時は街中でも開いてるスタンドがなく、
何キロも寮まで押して行った。

しかし、よく考えるとあの白熱灯で夜中走ったんやなあ。
たぶん25Wくらいやで。 ようやった。
まあ、それにくらべれば今はハロゲンの60W。
甘えたこと言ったら、あの頃の自分に笑われるな。

入学したら速攻で車校に入り、最短時間で中免を取って、
その夏、新車のGS125Eカタナに乗り換えた。
カタナは実家にあるので、だから、夏休みの帰省がGN50Eとの最後のツーリングとなった。

なんというか、お世話になりました。

また乗りたい。